シカゴの赦されざる者

今朝のスポーツニュースはダルビッシュ有青木宣親のトレードで持ち切りだった。

はずだが、夜更かしで寝坊したので実はスポーツニュースを見ていない。

7月31日はメジャーリーグベースボールMLB)のトレードデッドラインで、最終日に駆け込みで大型トレードが決まることが多い。

 

今年は2人の日本人選手がトレードの駒となったため、大きな話題になった。

特にダルビッシュは以前から、いつ、どこへトレードされるのかと、米国メディアが大いに盛り上がっていたぐらいの目玉選手だった。

青木はリリーバーの交換相手になった形だが、準スタメンクラスの選手であっても当たり前のようにトレードの駒とされる点は日本プロ野球との大きな違いである。

 

私はそのトレードデッドラインをTwitterで3時ごろまでフォローしていたが、ダルビッシュのトレードが報じられる前に寝落ちしてしまった。

勤め人ゆえ仕方ない。

 

さて次々と決まってゆくトレードをタイムラインで眺めていて、興味深いMLBニュースが流れてきた。

スティーブ・バートマン氏が2016年シカゴ・カブスワールドシリーズ優勝を祝して作られたチャンピオンリングを受け取ったと、シカゴのテレビ局WGNが特ダネで報じた。

チャンピオンリングにはバートマン氏の名前が彫られている。

そんな特別なチャンピオンリングを贈られたスティーブ・バートマン氏とは誰なのか。

 

バートマン氏はカブスのリーグ優勝を13年遠ざけた人物として「悪名高い」。

いわゆる「スティーブ・バートマン事件」は、その詳細がWikipedia記事に詳しく書かれているため、そちらに譲るが、事件の概要を簡単に説明しよう。

2003年のリーグチャンピオンシリーズで3勝2敗とリーグ優勝に王手をかけていたシカゴ・カブスは、あとアウト5つから3点リードを逆転され、翌試合も落としてリーグ優勝を逃した。

3塁側観客席に入るファールフライをカブス左翼手モイゼス・アルーは追いかけたが、捕球の手前でカブスファンの男性(スティーブ・バートマン氏)によって遮られ1アウトを逃したのが「キッカケ」である。

そこからカブスは逆転を許し、1945年以来、実に58年ぶりの悲願であったワールドシリーズ出場を逃した。

捕球を邪魔したバートマン氏はカブスファンから「戦犯」としてスケープゴートにされた。

またマスコミによるメディアスクラムも過熱し、バートマン氏のプライバシーも晒されたため、彼はその後氏名を変えて生きざるを得なくなったという。

スティーブ・バートマン事件 - Wikipedia

 

jp.reuters.com

こちらは昼間になって報じられた日本版ロイターの記事だが、見出しに違和感を抱いた。

ロイター記事の見出しによると、カブス球団がバートマン氏を「赦し」たという風に読める。

「赦し」たということは、それまでカブス球団はバートマン氏の罪を咎めていたということになるが、暴徒化したファンからバートマン氏を守ったのはカブス球団であった。


Bartman

動画の中でバートマン氏は飲食物などを投げつけられ観客席から退場しているが、球場職員は彼を保護し、暴徒が収まった後に自宅へと送り届けた。

ESPNのドキュメンタリー"Catching Hell"参照

ESPN Films: Catching Hell, inside the Bartman debacle - ESPN Video

 

カブス球団がバートマン氏を非難したことは一度としてない。

この一連の経緯を知る者としては、カブス球団がバートマン氏を赦し、チャンピオンリングをプレゼントしたという作り話には白けてしまった。

 

実はロイター日本版の記事には署名がないが、元記事と思われるものを英語版ロイターで見つけた。

逐語訳ではないものの、この記事を日本人向けに意訳したものと考えられる。

www.reuters.com

 

見出しは日本版と異なるが、記事の中に"forgiveness"という文言がある。

In a private ceremony on Monday morning, nine months after winning its first World Series since 1908, the team gave Bartman the ring in a gesture of forgiveness.

誰が誰を「赦し」たのか明言されてはいないが、文脈的に考えてカブス球団がバートマン氏を「赦し」たと解釈するのが自然だろう。

 

ロイター署名記者のジュリア・ジェイコブズ氏と同じく、特ダネを報じたWGNテレビのジュリー・アンルー氏も野球が専門ではないが、その記事の筆致は異なる。

wgntv.com

Now, 14 years later, Cubs owner Tom Ricketts thought it was high time to extend an olive branch.

記事では、カブス球団のオーナーが和平を申し出る潮時と考えたと記されている。

和平―――赦しとは異なったニュアンスである。 

誰と誰の和平だろうか。

ここでもやはり明言されてはいないが、バートマン氏とシカゴ市民の和平のためにチャンピオンリングは贈られたものだと考えたい。

 

「事件」から13年後の昨年、カブスはワールドチャンピオンとなったが、カブスファンの間では今年の開幕試合にバートマン氏を呼ぼうという意見が多く見られた。

だがバートマン氏はファンの前に姿を見せなかった。

彼は「いちファン」であることに留まったのだ。 

当時のシカゴ市民が彼に負わせた重荷を思い起こせば、それは当然であろう。

 

罪はバートマン氏にはなく、カブスファンの側にあったのであり、「赦し」を得たかったのはシカゴ市民ではなかっただろうか。

そこではカブス球団が和平の仲介者である。

だがバートマン氏がシカゴ市民を、カブスファンを、あの時のリンチを、心底から「赦し」たのかどうか。

それはただ神のみぞ知ることだ。

 

彼が2度とファンの前に現れることは無いだろう。

彼の名前の忘れられる日が来ることを誰よりも望んでいるはずであり、71年間続いた"lovable loser"と言われたチームの歴史を完全に終わらせる黄金期の到来こそがその最短の近道であるはずだ。

 

連覇を目指すカブスは今季前半戦、苦戦した。

オールスターブレーク後は勢いを取り戻し、地区首位に躍り出ている。

トレードデッドラインにおいても、先手先手のフラッグディールを仕掛け、最終日にはライバルを尻目にバートマン氏との和解を演出するほどに心の余裕ができている。

連覇こそ、バートマン氏とカブスファンが望む真の和平への途上にある。