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川は流れてどこどこ行くの

前回UPの際、調子に乗って「また明日」と書いたにも関わらず、1週間が過ぎました。

皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

さてさて前回は新世界の西にできる星野リゾートの建設予定地と、その横を流れていた川の流れを辿って国道26号(住吉街道)まで歩いてきました。

 

次にわれわれ調査団が目指したのは、今は無くなった長橋川に架かっていた長橋の痕跡です。

 

大変申し訳ないが、また毎日のローカル記事を引用するので、残り9本となった無料記事枠を使ってもう1本読んでみて貰えないだろうか。

わが町にも歴史あり・知られざる大阪/457 長橋川跡 /大阪

 

江戸時代の大阪は八百八橋と呼ばれるほどあちこちに橋が架かっていたが、近代化以降に多くの川が埋め立てられたため、橋も一緒に無くなっている。

その時に記念碑として親柱(欄干の袂部分)だけが残されていることが多い。

 

長橋の親柱も残されているそうなので、それを探しに歩いてみた。

 

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新世界から南西方向へ流れてきた川は国道26号辺りで西に向きを変え、十三間堀川に合流する。

十三間堀川も今は大部分が埋め立てられて、阪神高速15号堺線が走っている。

 

その長橋川に架かっていた長橋の親柱が残されている所はどこなのか。

毎日の記事ではちょっと特定が難しかったが、大体の当たりをつけて行ってみたらビンゴ。

 

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無事見つかりました。

案外さっくりと。 

 

こういう石でできた物は必ず側面と背面を見るのがこの業界の鉄則です。

そこに歴史が刻まれている。

 

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大正5年(1916年)8月に架けられ、昭和14年(1939年)に川が埋め立てられたと記されている。

 

ここで前の記事を思い出して欲しい。

南海本線の高架化工事が完成したのは昭和12年(1937年)なので、新世界から流れていた川が長橋川であったとすると、高架化工事完了の2年後に埋め立てられたということか。

 

 

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斜めに交わる川を跨いで作った箇所だけ橋脚も斜めになったのだと考えられないだろうか。

 

これで新世界から始まった川の流れを辿る旅を終えることにしたい。

 

 

…と思ったのだが、実は釈然としない点があるのだ。 

実はこの長橋川、古い地図を見てもその名前を見つけることができない謎の川なのだ。

 

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これは1930年頃の地図だが、出城通の1本南の通りが長橋川だと思われるが、川が流れていたような描かれ方がしていない。

また新世界から流れていた川というか、道も南海本線を潜った辺りで途絶えているように見える。

 

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続いて大正13年(1924年)のパノラマ地図を見ると、確かに職工学校(現在の今宮工科高校)から西に流れる川が描かれている。

しかし新世界から流れていた川の姿は見えない。

 

さらに古い、明治後期頃の地図まで遡ってみよう。

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関西本線(今の大阪環状線今宮駅より南は集落が転々とするだけで、ほとんどが田畑や荒地だったようだ。

ここから20年ほどで一気に区画整理が進んだことが分かる。

 

七反嶋や屠牛場と記された所から東西に伸びているのが恐らく長橋川ではないかと思われる。

しかしその川も今宮駅から南に続く道(勝間街道)と交差した所で途絶えている。

 

最後に江戸時代の古地図まで遡ろう。

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十三間(堀)川に東から 上人川が流れ込んでいるのが描かれている。

この上人川は位置からして長堀川と同定して良さそうだが、問題はその上流が新世界(北東)方向ではなく、南を向いていることだ。

 

新世界から流れてきた川を辿る旅はここで暗礁に乗り上げてしまった(上手い←全然美味くない) 

 

今宵も遅いので、また明日(多分また来週)