シカゴの赦されざる者
今朝のスポーツニュースはダルビッシュ有と青木宣親のトレードで持ち切りだった。
はずだが、夜更かしで寝坊したので実はスポーツニュースを見ていない。
7月31日はメジャーリーグベースボール(MLB)のトレードデッドラインで、最終日に駆け込みで大型トレードが決まることが多い。
今年は2人の日本人選手がトレードの駒となったため、大きな話題になった。
特にダルビッシュは以前から、いつ、どこへトレードされるのかと、米国メディアが大いに盛り上がっていたぐらいの目玉選手だった。
青木はリリーバーの交換相手になった形だが、準スタメンクラスの選手であっても当たり前のようにトレードの駒とされる点は日本プロ野球との大きな違いである。
私はそのトレードデッドラインをTwitterで3時ごろまでフォローしていたが、ダルビッシュのトレードが報じられる前に寝落ちしてしまった。
勤め人ゆえ仕方ない。
さて次々と決まってゆくトレードをタイムラインで眺めていて、興味深いMLBニュースが流れてきた。
WGN EXCLUSIVE: Steve Bartman to receive 2016 Chicago @Cubs World Series Championship ring https://t.co/14zQ8W0hMb
— WGN TV News (@WGNNews) 2017年7月31日
スティーブ・バートマン氏が2016年シカゴ・カブスのワールドシリーズ優勝を祝して作られたチャンピオンリングを受け取ったと、シカゴのテレビ局WGNが特ダネで報じた。
The #Cubs today presented Steve Bartman with a World Series ring pic.twitter.com/WFbxBdHyZw
— Carrie Muskat (@CarrieMuskat) 2017年7月31日
チャンピオンリングにはバートマン氏の名前が彫られている。
そんな特別なチャンピオンリングを贈られたスティーブ・バートマン氏とは誰なのか。
バートマン氏はカブスのリーグ優勝を13年遠ざけた人物として「悪名高い」。
いわゆる「スティーブ・バートマン事件」は、その詳細がWikipedia記事に詳しく書かれているため、そちらに譲るが、事件の概要を簡単に説明しよう。
2003年のリーグチャンピオンシリーズで3勝2敗とリーグ優勝に王手をかけていたシカゴ・カブスは、あとアウト5つから3点リードを逆転され、翌試合も落としてリーグ優勝を逃した。
3塁側観客席に入るファールフライをカブスの左翼手モイゼス・アルーは追いかけたが、捕球の手前でカブスファンの男性(スティーブ・バートマン氏)によって遮られ1アウトを逃したのが「キッカケ」である。
そこからカブスは逆転を許し、1945年以来、実に58年ぶりの悲願であったワールドシリーズ出場を逃した。
捕球を邪魔したバートマン氏はカブスファンから「戦犯」としてスケープゴートにされた。
またマスコミによるメディアスクラムも過熱し、バートマン氏のプライバシーも晒されたため、彼はその後氏名を変えて生きざるを得なくなったという。
こちらは昼間になって報じられた日本版ロイターの記事だが、見出しに違和感を抱いた。
ロイター記事の見出しによると、カブス球団がバートマン氏を「赦し」たという風に読める。
「赦し」たということは、それまでカブス球団はバートマン氏の罪を咎めていたということになるが、暴徒化したファンからバートマン氏を守ったのはカブス球団であった。
動画の中でバートマン氏は飲食物などを投げつけられ観客席から退場しているが、球場職員は彼を保護し、暴徒が収まった後に自宅へと送り届けた。
※ESPNのドキュメンタリー"Catching Hell"参照
ESPN Films: Catching Hell, inside the Bartman debacle - ESPN Video
カブス球団がバートマン氏を非難したことは一度としてない。
この一連の経緯を知る者としては、カブス球団がバートマン氏を赦し、チャンピオンリングをプレゼントしたという作り話には白けてしまった。
実はロイター日本版の記事には署名がないが、元記事と思われるものを英語版ロイターで見つけた。
逐語訳ではないものの、この記事を日本人向けに意訳したものと考えられる。
見出しは日本版と異なるが、記事の中に"forgiveness"という文言がある。
In a private ceremony on Monday morning, nine months after winning its first World Series since 1908, the team gave Bartman the ring in a gesture of forgiveness.
誰が誰を「赦し」たのか明言されてはいないが、文脈的に考えてカブス球団がバートマン氏を「赦し」たと解釈するのが自然だろう。
ロイター署名記者のジュリア・ジェイコブズ氏と同じく、特ダネを報じたWGNテレビのジュリー・アンルー氏も野球が専門ではないが、その記事の筆致は異なる。
Now, 14 years later, Cubs owner Tom Ricketts thought it was high time to extend an olive branch.
記事では、カブス球団のオーナーが和平を申し出る潮時と考えたと記されている。
和平―――赦しとは異なったニュアンスである。
誰と誰の和平だろうか。
ここでもやはり明言されてはいないが、バートマン氏とシカゴ市民の和平のためにチャンピオンリングは贈られたものだと考えたい。
「事件」から13年後の昨年、カブスはワールドチャンピオンとなったが、カブスファンの間では今年の開幕試合にバートマン氏を呼ぼうという意見が多く見られた。
だがバートマン氏はファンの前に姿を見せなかった。
彼は「いちファン」であることに留まったのだ。
当時のシカゴ市民が彼に負わせた重荷を思い起こせば、それは当然であろう。
罪はバートマン氏にはなく、カブスファンの側にあったのであり、「赦し」を得たかったのはシカゴ市民ではなかっただろうか。
そこではカブス球団が和平の仲介者である。
だがバートマン氏がシカゴ市民を、カブスファンを、あの時のリンチを、心底から「赦し」たのかどうか。
それはただ神のみぞ知ることだ。
彼が2度とファンの前に現れることは無いだろう。
彼の名前の忘れられる日が来ることを誰よりも望んでいるはずであり、71年間続いた"lovable loser"と言われたチームの歴史を完全に終わらせる黄金期の到来こそがその最短の近道であるはずだ。
連覇を目指すカブスは今季前半戦、苦戦した。
オールスターブレーク後は勢いを取り戻し、地区首位に躍り出ている。
トレードデッドラインにおいても、先手先手のフラッグディールを仕掛け、最終日にはライバルを尻目にバートマン氏との和解を演出するほどに心の余裕ができている。
連覇こそ、バートマン氏とカブスファンが望む真の和平への途上にある。
南大東島に行ってきた(第1回・歴史編)
南大東島に行ってきた。
行ったことの無い人が多いと思うので、紹介も兼ねてブログ記事にする。
その第1回として、まずは南大東島の歴史を紹介する。
南大東島と言っても場所が分からない人も多いと思うので、そこから説明しよう。
沖縄本島から300km以上東に位置していて、経度では北九州市と同じぐらいだ。
那覇空港から1日2往復の定期便が就航しており、片道約70分ほどかかる。
南大東島と北大東島が双子のように並んでいて、その間は約8kmと非常に近い距離にある。
なので絶海の孤島というわけではないが、沖縄本島や「本土」からは随分と離れたところに位置している。
ところで私が南大東島に興味を持ったのは随分前のことで、かれこれ10年以上経つはずだ。
ヤフージオシティーズのウェブサイトが盛んだったころ、吉田一郎氏(現さいたま市議)の「世界飛び地領土研究会」のページは隅から隅まで読み潰した記憶がある。
トップページには「世界地図を眺めているとナゼか気になる飛び地や、飛び地のような小さな植民地/その他各種の怪しい地帯を研究しています」と書いてあるが、吉田氏のウェブサイトの面白いところは単なる飛び地だけに留まらず、「その他各種の怪しい地帯」まで幅広く紹介していたところだ。
その中で東インド会社などの会社統治領を紹介しているページがある。
もっとも東インド会社はメジャーすぎて紹介されていないのだが。
南北大東島も会社統治領の一例として取り上げられている。
この島の歴史が特異である点は吉田氏の文章に譲るが、簡単にまとめると、江戸時代まで無人島であった島が明治になって開拓されたが、終戦まで町村制が施行されずに民間企業によって島の自治が行われていたという極めて稀な地域であった。
南北大東島の開拓者は八丈島からやってきた玉置半右衛門たちである。
彼らはこの島でサトウキビプランテーションを始めたが、その労働力は沖縄諸島等からの出稼ぎによって補われた。
定住者である支配層が八丈島出身者であったため、島の文化には八丈島由来のものが色濃く残っている。
その一例が八丈島の郷土料理である「島寿司」が南北大東島でも食されている。
サワラなどの魚を醤油に漬けたもの(いわゆる「ヅケ」)を砂糖が多めの酢飯に乗せて食す。
食材はどこでも手に入りやすいものなので、最近は沖縄本島でも販売されているようだ。
また一方で沖縄といえば久米島や八重山諸島でも地のものが作られている泡盛だが、南北大東島には「地泡盛」が無い。
では昔は何を飲んでいたのかというと、調査中で分からない。
八丈島は焼酎文化なので、昔は大東島でも主に焼酎が飲まれていたのではないかと考えている。
現在の八丈島では麦焼酎が主流だそうだが、明治時代は芋焼酎が殆どだったと考えられるので、大東島でも焼酎が飲まれていたとすると芋が多かったのではないか。
その流罪人の1人、丹宗右衛門による芋焼酎造りの指導と島の住人の菊池秀右衛門がさつま芋の普及したことによって八丈島に芋焼酎がもたらされました。しかし、1975年の台風による芋畑の壊滅的な被害や、嗜好の変化などによって八丈島酒は麦焼酎が主流になっていったのです。
さて会社統治の象徴的なものとしてよく語られるのが、「大東島紙幣」である。
戦前の南北大東島では大日本帝国の通貨ではなく、民間企業が発行した紙幣(正確には「物品引換券」)が流通していたというのだ。
サトウキビプランテーションの労働者たちは会社から給与として「物品引換券」が支給され、島内のあらゆる商品・サービスを購入する際にはこの「物品引換券」で支払われた。
これは事実上の通貨であると言ってよいだろう。
実はこの悪名高い「大東島紙幣」はほとんど現存していないらしい。
その貴重な1枚が島内の「ふるさと文化センター」で保存展示されている。
昭和16年ごろまで流通したそうだが、恐らく大日本帝国の通貨と交換された後は、文字通り「紙屑」となったわけで、戦時下ゆえに収集家の手に渡る間もなく廃棄されたものが殆どではなかったかと容易に想像できる。
南大東島の主産業は今でもサトウキビ農業と製糖業である。
この見渡す限り一面がサトウキビ畑であり、サトウキビ以外の作物を見つけることは難しい。
しかし残念ながら南大東島産のサトウキビから作られた砂糖はその殆どが島外で消費されており、その砂糖が南大東島産として知られていることも殆ど無い。
最後に、南大東島のサトウキビを初めてブランドとして確立したベンチャー企業を紹介して第1回の歴史編の筆を擱く。
サトウキビを主原料として作られる酒として、有名なものが2つある。
黒糖焼酎とラム酒であるが、酒税法等により黒糖焼酎は奄美群島で製造されたもの以外、リキュールとして扱われる。
リキュールは焼酎に比べて酒税が割高となるため、奄美群島以外で黒糖焼酎が製造されることは少ない。
ラム酒もリキュールとして扱われるが、黒糖焼酎とは別の酒類としてブランドが確立しているため、サトウキビの産地で「地ラム酒」として作られることが増えてきた。
沖縄と同じくアメリカ統治下にあった小笠原諸島もその1つである。
その製造者は全くの異分野である沖縄電力の社内ベンチャー制度を使って作られた会社なのだ。
この「グレイス・ラム」社の製造・販売するラム酒は非常に評価が高いらしい。
それは世界でも珍しい「アグリコール製法」によるからだ。
アグリコールとは農業生産ラムという意味で、サトウキビを搾り、その「サトウキビ汁」を発酵させて造るラムです。
世界でもこのラムアグリコールを製造している国やメーカーは非常に少なく、希少性の高い商品とされています。
ちなみに現在、ラムアグリコールを製造しているのは、主にマルティニーク、レユニオンに代表されるフランス海外県、そして太平洋に浮かぶ、ここ南大東島(グレイスラム)。しかも、グレイスラムのラムアグリコールは無添加・無着色仕上げで、さらに希少性が高くなっています。
サトウキビの収穫時期に合わせて、一年に一度しか造れないのもまた貴重なラム酒といえるでしょう。
一般的なラム酒は、サトウキビの搾り汁から砂糖を精製する工程において副産物としてできる糖蜜を発酵させて作るのだが(これを「インダストリアル製法」と言う)、搾り汁から直接発酵させるのが「アグリコール製法」というわけだ。
ラム酒のブランドと言えばバカルディなどが有名だが、あれらはみなインダストリアル製法だそうだ。
島の居酒屋で一杯いただいたが、とても上品な甘さがして、ラム酒のイメージが変わった。
今では沖縄本島でも販売されているし、ネットでも購入できるのでぜひ味わって貰いたい。
とりあえず第1回はここまで。
川は流れてどこどこ行くの
前回UPの際、調子に乗って「また明日」と書いたにも関わらず、1週間が過ぎました。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
さてさて前回は新世界の西にできる星野リゾートの建設予定地と、その横を流れていた川の流れを辿って国道26号(住吉街道)まで歩いてきました。
次にわれわれ調査団が目指したのは、今は無くなった長橋川に架かっていた長橋の痕跡です。
大変申し訳ないが、また毎日のローカル記事を引用するので、残り9本となった無料記事枠を使ってもう1本読んでみて貰えないだろうか。
わが町にも歴史あり・知られざる大阪/457 長橋川跡 /大阪
江戸時代の大阪は八百八橋と呼ばれるほどあちこちに橋が架かっていたが、近代化以降に多くの川が埋め立てられたため、橋も一緒に無くなっている。
その時に記念碑として親柱(欄干の袂部分)だけが残されていることが多い。
長橋の親柱も残されているそうなので、それを探しに歩いてみた。
新世界から南西方向へ流れてきた川は国道26号辺りで西に向きを変え、十三間堀川に合流する。
十三間堀川も今は大部分が埋め立てられて、阪神高速15号堺線が走っている。
その長橋川に架かっていた長橋の親柱が残されている所はどこなのか。
毎日の記事ではちょっと特定が難しかったが、大体の当たりをつけて行ってみたらビンゴ。
無事見つかりました。
案外さっくりと。
こういう石でできた物は必ず側面と背面を見るのがこの業界の鉄則です。
そこに歴史が刻まれている。
大正5年(1916年)8月に架けられ、昭和14年(1939年)に川が埋め立てられたと記されている。
ここで前の記事を思い出して欲しい。
南海本線の高架化工事が完成したのは昭和12年(1937年)なので、新世界から流れていた川が長橋川であったとすると、高架化工事完了の2年後に埋め立てられたということか。
斜めに交わる川を跨いで作った箇所だけ橋脚も斜めになったのだと考えられないだろうか。
これで新世界から始まった川の流れを辿る旅を終えることにしたい。
…と思ったのだが、実は釈然としない点があるのだ。
実はこの長橋川、古い地図を見てもその名前を見つけることができない謎の川なのだ。
これは1930年頃の地図だが、出城通の1本南の通りが長橋川だと思われるが、川が流れていたような描かれ方がしていない。
また新世界から流れていた川というか、道も南海本線を潜った辺りで途絶えているように見える。
続いて大正13年(1924年)のパノラマ地図を見ると、確かに職工学校(現在の今宮工科高校)から西に流れる川が描かれている。
しかし新世界から流れていた川の姿は見えない。
さらに古い、明治後期頃の地図まで遡ってみよう。
関西本線(今の大阪環状線)今宮駅より南は集落が転々とするだけで、ほとんどが田畑や荒地だったようだ。
ここから20年ほどで一気に区画整理が進んだことが分かる。
七反嶋や屠牛場と記された所から東西に伸びているのが恐らく長橋川ではないかと思われる。
しかしその川も今宮駅から南に続く道(勝間街道)と交差した所で途絶えている。
最後に江戸時代の古地図まで遡ろう。
十三間(堀)川に東から 上人川が流れ込んでいるのが描かれている。
この上人川は位置からして長堀川と同定して良さそうだが、問題はその上流が新世界(北東)方向ではなく、南を向いていることだ。
新世界から流れてきた川を辿る旅はここで暗礁に乗り上げてしまった(上手い←全然美味くない)
今宵も遅いので、また明日(多分また来週)
ブログ始めました。
嘘です。
昔からやってました。
エイプリルフールなので許して下さい。
リニューアルします。
はてなダイアリーの方は放置です。
先月のことですが、ツイッターで新今宮駅前の空き地に星野リゾートのホテルが出来ると話題になってたいたので、大阪に寄った序でに建設予定地辺りをブラブラと散歩して来たわけです。
新世界にはちょくちょく行くこともあるのですが、南海線の方までは足を運ばないので、実は空き地があること自体知らなかった。
フェスティバルゲートはとうの昔に閉園したことは知っていたので、遂にスパワールドが潰れるのか?と一瞬焦りました。
いや、焦るほど思い入れも無ければ、そもそもスパワールド使ったことも無いですけども。
新今宮駅とはいえ、環状線の内側にそんな広い空き地があるなんて何か曰くが有るのだろうかと訝しみ調べてみたのですが、例えばTHE PAGEの記事を読んだみてもイマイチよく分からない。
大阪・新今宮駅前の土地に「星野リゾート」進出 以前は何があったの? | THE PAGE 大阪
「それ以前は、クラブコスメチックスの研究所・化粧品工場、日本ラス工業の工場があったという。」
なんだよそのクラブコスメチックスって?
コスメとか新今宮界隈からは最もかけ離れたもの…でもないか…大阪のおばちゃん化粧濃いし…いや、そうじゃなくて。
そこでもう少しググってみると、毎日新聞のローカル記事が見つかった。
ひと月に10本しか読めない記事の1本として読む価値のある記事だとオススメするが、面白くなくても怒らないでね。
わが町にも歴史あり・知られざる大阪/460 中山太陽堂 /大阪
実はこの記事、長橋川という今は埋め立てられて跡形も無くなった川を辿る小連載の続きなのだが、これは面白いなぁと思い、その謎を解くために、われわれ取材班は新世界へ飛んだ!
通天閣が見えますね。
お腹吹田市。
あづまでビールとシチューうどん食べてしゅっぱーつ。
https://tabelog.com/osaka/A2701/A270206/27020125/
まず阪堺線の踏切を渡ります。
なんか道が不自然に曲がりくねってますね。
これは川ですよ。
ほらほら曲がる曲がる。
川だ、これは川の跡だ!とワクワクしながら路地を進むと…
にゃーん(=^x^=)
レジ袋がスーパー玉出ですね。
これは新今宮ポイント高いですよ!
さて、フェンスの中を覗くと…
あべのハルカスだーっ!
じゃなくて、空き地が広がってました。
はい、それだけです。
お終い。
だって中に入られないし、近くに高くまで登れるビルも無いし…
通天閣まで戻るのはめんどくさいし…
それだけじゃ味気ないので、旧町名の「ミズサキ(水崎町)」と書かれた電柱も見つけましたよ!
ここまで辿った道を先に紹介した毎日の記事にあった地図で説明すると、「旧長橋川」と書かれた直角三角形の斜辺にあたる所です。
当時の写真を見ると結構川幅が広いですね。
今の道路と同じくらいでしょうか。
これで散歩を終えてしまうのも勿体無いので、ここから独自取材です。
川のあった道を下流方向(南西)に歩いて行くと、南海本線と交差します。
この南海の高架下、橋脚が斜めになってて川があったっぽく無いですか???
Googleマップもほら。
斜めに交わるように南海線が走ってる。
南海本線の難波〜天下茶屋間は昭和12年(1937年)に高架化されている。
この年を頭の片隅に留めておいて欲しい。
えっ?!
ここ通れるの?!
どう見ても洞窟でした、本当に有難うございました。
昭和41年か…そんなに驚くほど古くは無いのね…
狭くて天井の低いトンネルを抜けると…
スーパー玉出であつた。
そして道がまた不自然に曲がっている。
川だ。
ここで川は大きな通り(都市計画道路尼崎平野線)と交わるが、それを渡ると…
また斜めに道が続いている。
歩道橋から見ると、凄い狭いっすね。
四ツ橋筋から見ても…斜めっすね。
ということで斜めに流れる川はここでお終い。
ここから先はまた明日。
明日じゃないかもしれないけど。